ファン・ジョンウン / 野蛮なアリスさん

 まだ落ちてて、今も落ちてるんだ。すごく暗くて長い穴の中を落ちながら、アリス少年が思うんだ、ぼくずいぶん前に兎一匹追っかけて穴に落ちたんだけど……どんなに落ちても底に着かないな……ぼく、ただ落ちている……落ちて、落ちて、落ちて……ずっと、ずっと……もう兎も見えないのにずっと……って考えながら落ちていくんだ。いつか底に着くだろう、そろそろ終わるだろうって思うんだけど終わらなくて、終わんないなあーって、一生けんめい考えながら落ちていったんだよ。(P.150)

 女装したホームレスのアリシアが、都市開発により消えてしまった土地コモリでの生い立ちについて語り始める。

 韓国ノワール(最近はそう呼ばれているらしい)という映画ジャンルは徹底的なリアリズムに基づいた暴力描写を基調としながら、復讐が次から次へと新たな復讐を産む暴力の連鎖、持つものと持たざるものの格差、そういった韓国社会の暗部を異工同曲的にひたすら描き続けていて、きわめてしんどい映画が多いのだけれど、この『野蛮なアリスさん』もひたすら重苦しく、辛い。

 "クサレオメコ"と連呼しながら少年アリシアとその弟を虐待する母親、それを見て見ぬふりをしながら土地の再開発による補償金を得ることだけに必死な父親。食用にするためだけに育てられる犬たち。

 その両親たちにしても、かつて自分たちが苦しめられてきた過去がある。そうして、コモリでは暴力と貧困の再生産が繰り返される。物語全体を通してそうした状況に対するどうしようもなさ、やるせなさが漂っている。

 じっとその話を聞いていた男は、木の外に出たらいいじゃないかと言った。すべてはそいつが木の下に立つことにこだわっているからだろ? 木の外に出れば万事おしまいだ。オーケイ?(P.181) 

 ミルトン・エリクソンは、大人になるということは自由に移動できる権利を保証されるということだと言う。そういう意味において、この男は正しい。それは救いですらある。しかし、まだそうした権利を持ち得ない少年アリシアたちにとって、それは「銀河みたいな答え」でしかなかった。

 否応なく土地に縛られてしまった、どこにも行けない人びとの物語を文学はしばしば描く。しかしコモリはもう再開発によって消えてしまっている土地なのであり、どこにも存在していない。アリシアの後頭部にしかないのだが、しかしコモリでの記憶は確実にアリシアを呪縛している。アリシアは四つ角で女装しながら、コモリの夢を見つづけている。

 格差拡大の背景には都市再開発と不動産投機のマネーゲーム化がある、という訳者解説はありがたかった。韓国映画の劇中でも頻繁に貧困や格差がファクターとして現れるが、それが実際にはどのような背景に因るものなのか知らなかったので、興味深く読んだ。

(2018年 河出書房新社 ★★★★★)