A・A・ミルン / クマのプーさん、プー横町にたった家

 先日『プーと大人になった僕』を観に行ったのだが、ミルンの原作もまったく読んだことがないし、ディズニーのアニメすら全く知らなかったので、ウサギやらカンガルーやらフクロウやら未知のキャラクターが登場してきて「なんじゃこりゃ」状態で、それでも面白かったし感動したのだが、原作もやっぱり読んだ方がいいなと思い、図書館で借りてきて読んだ。

 たとえば劇中に於いて、プーとクリストファー・ロビンがいなくなった仲間を探しに100エーカーの森に行き、いなくなった仲間たちを捜すシークエンスがある。ふたりは北に向かうことになり、クリストファーがかつて戦場で使っていた方位磁針をプーに渡すのだが、プーは方位磁針を見ずに自分の足跡を追いかけてしまう。結果、同じところをぐるぐる回ってしまい、クリストファーが我慢できずにプーを怒鳴りつけるというシーンがあるのだが、これは『クマのプーさん』の第三章で、プーとピグレットが謎の生き物の足跡を追いかけていくが、それは自分たちの足跡で、ただぐるぐる回っていただけだった、というエピソードと対応している。

 「おばかさん。」クリストファー・ロビンはいいました。「きみはなにしてたんだい? はじめ、じぶんひとりで木のまわりを二度まわってさ。それから、コブタがきみのあと、追っかけてって、ふたりでいっしょにまわってさ。それから、また、もう一度まわろうとしてたんだよ。」

「ちょっと、まって。」と、プーは、前足をあげて、クリストファー・ロビンをとめました。

 そして、プーは腰をおろし、かんがえられるだけかんがえぶかく、かんがえました。それから、ひとつの足跡へじぶんの足をいれてみて、鼻を二度ばかりかくと、立ちあがりました。

 「そうだ。」と、プーはいいました。

 「わかりました。」と、プーはいいました。

 「ぼくは、ばかだった、だまされてた。ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ。」

 「きみは、世界第一のクマさ。」クリストファー・ロビンが、なぐさめるようにいいました。

 「そうかしら?」と、プーはすこし元気になり、それから、きゅうに元気いっぱいになると、「ともかくも、もうかれこれ、おひるの時間だ。」と、いいました。そこで、プーは、おひるをたべに家にかえりました。

(P.66-68)

  この反応の違いを知ると、クリストファー・ロビンがただ単にモタモタしているプーに怒鳴ったのではなく、長い年月をかけて着実にイノセンスを摩耗させられてしまったのだということをさらに深く理解できる。また、このシーンの後にクリストファーは穴に落ちて気を失うが、この穴もプーとピグレットが『クマのプーさん』の第五章においてゾゾ(ズオウ)を捕まえるために掘った穴だったらしく(映画で言及されていたかどうかちょっと覚えてないが)、100エーカーの森を単なるファンタジー空間として片付けるのではなく、ディテールを忠実に再現することで原作ファンを喜ばせるクリエイションは本当に素晴らしいなと、読みながら映画を思い出して感動を覚えていた。

 他にも、映画だけではつかめなかったキャラクター性みたいなもの(正直ピグレットの「臆病」とイーヨーの「ネガティブ」は区別がつかず、キャラかぶってね?とか思っていた)がちゃんと理解できるようになったり、映画で感じていた様々な疑問が氷解したのであった。

 石井桃子氏の翻訳はさすがに古いせいもあってか、いささか読み難い。いつの翻訳かはわからないが時代を感じる言い回しが多く、それなりに本を読んでいる大人でさえ読み難いと感じるのだから、スマホ世代のリーダビリティに慣れた子供が読んでも違和感しか覚えなかろうと思うのだが(岩波のフォントも細かくて読み難い。これは俺が老境に差しかかりつつあるからかもしれないが)。

 村上春樹も言うように古典的名作は異なった翻訳が並行したかたちで存在していて構わないのではないかと思うし、Amazonで調べると角川から森絵都、新潮から阿川佐和子の新訳が出ているらしく、いまから読むならそっちの方がいいんじゃないかという気もするが、読んでいないのでなんともいえない。イラストが原作のものではないというまた別の問題もある。

 とはいえ、作品そのものは楽しんで読ませてもらった。この後ディズニーのアニメを観て、アン・スウェイトの『グッバイ・クリストファー・ロビン』もそのうち読む予定。

岩波書店 1957年,1958年 ★★★★★)