岩井洋 / 記憶術のススメ 近代日本と立身出世

 明治二十年代ごろ、催眠術・心霊術・記憶術を始めとする<術>ブームがあった。それは資本主義が輸入され、日本が急速に近代化していく過程において、人々がより経済的な価値観を重視し、時間を細かく断裁することで効率的な時間配分を獲得しようとする思考洋式の変容によって起こったムーブメントであったと言える。

 そうしたライフハック的な<術>ブームの中で、"分限思想"(身分社会における「身分相応」な成功を求める)から"立身出世"(下から上の階級に勝ち上がるチャンスが得られる)へとイデオロギーが移り変わり、競争熱が高まってゆく人々のあいだで、どのように記憶術が浸透していったのか、そしてそれがいかにして学校教育と結びついていったのかということを明らかにしてゆく。

 なぜ記憶術の本が現代において『自己啓発』としてカテゴリーされ、書店に並べられているのかということがそのまま書かれていると言っても過言ではないだろう。

 記憶術ブームの発端となった「和田守記憶法」を編み出した和田守菊次郎という人物がかつて「糸平事件」なる詐欺事件に関与しており、そのときの共犯メンバーの一部が「和田守記憶法」の仕掛人と一致する、というくだりはさしずめ推理小説のような趣もあって興味深かった。また、現代のハウツー本などで散見されるような、思考のコントロールや言語テクニックなどの操作を用いた「ソフト」な記憶術だけでなく、身体的なトレーニングや衛生管理(ストレートに言えば"好色"の禁止など)によって記憶力を増進しようと試みる「ハード」な記憶術も同様に多かったというのも面白い。

 記憶術をライフハックとして身につけるための本では無論ないのでそういう向きには勧めないが、記憶術の具体的な調査研究に基づいた文化誌としてかなり面白い本。

(1997年 青弓社 ★★★★★)