Her

 深夜のファミリーマートには客の姿はなかった。
 店内放送の音楽だけが延々と流れている。彼女はすぐ横で念入りに手を洗っている。もうすぐ交代の時間だった。
 彼女と言葉を交わすようになったのがいつだったか、よく覚えていない。
 彼女は最初から目立っていた。黒とピンクの派手な髪色で、ピアスホールだらけだった。よく店長が雇ってくれたな、と不思議になるような外見だった。バイトが終わるとウイスキーかビールを買い、喫煙所で必ずタバコを一本吸ってから帰った。ときどき彼氏が遊びに来るんだ、と言っていた。
 シフトが一緒だったということくらいしか共通点はなかったが、しばらく一緒に働いていると彼女自身は意外と気さくに話をしてくれた。アニメとマンガがとても好きなようだったが、彼にはほとんどわからなかった。
 彼が就職を機に東京に引っ越すことになったとき「実はテレビがないんだ」と言うと、
「うちに一台いらないやつあるから、あげるよ。うち遊びにくる? スマブラしよ」
 突然の誘いに彼は驚いた。
「いいの? スマブラやったことないけど」
「いいよ、いつにする?」

 インターフォンを鳴らすと、ドアがゆっくりと開いた。タバコと香水の入り混じったような甘ったるい匂いがした。 彼女が玄関から顔を覗かせると、頬骨のあたりに大きな赤と紫の入り混じったような色の痕があった。
「え、それ、どうしたの?」
 彼女はしばらく何も言わなかった。開きかけたドアを押さえながら、じっと目の前のどこでもない場所を見つめていた。どこかの部屋の洗濯機の音だけがアパートの廊下に低く唸りつづけていた。
「別に。なんでもない」
彼は何も言わなかった。彼は傷を撫でさする彼女の手を見つめながら、「そう」とだけ言った。

 部屋の中は散らかっていたというより、明らかに誰かがこの部屋で暴れた後だった。テーブルがひっくり返り、マイメロのマグカップの破片が床に散らばっている。
「片づけるの手伝うよ」
彼女は何も言わず首を横に振る。「そこ、座っていいから」とすぐそばにある椅子を指差す。
 彼が椅子に腰かけると、彼女もカーペットの上で体育座りをしてうつむく。
 長い沈黙がつづいた。彼女は傷を覆うように手で触れながら、じっと割れたマグカップを見つめている。言葉を待っているのか、あるいは何も待っていないのかもしれなかった。
「殴られたんだ」
 彼女の目が真っ赤になっていることに気がつく。
 彼氏のウォレットチェーンが壊れた。私じゃないのに。
 
 しばらく一緒に部屋を片付けた。マグカップを片付ける途中、破片で親指を切った。自分のデニムで血を拭うと、ふたたび片付け始めた。
 片付けを終えると、彼は「そろそろ帰るよ」と言った。
「あとは大丈夫?」
 彼女は黙りこくったまま、何も言わなかった。 どれだけ経ったのかすら曖昧な時間の中で、もう少しだけここにいて、と掠れそうな声で言った。

 朝、目が覚めると朝食を用意してくれていた。
 マイメロではなくクロミのマグカップに淹れてくれたコーヒーと、よくわからないウサギのようなキャラクターのお皿に、オーブンで焼いたトーストが乗せられていた。
「車で駅まで送っていくから」と彼女は言った。
 うん、と頷く。

 彼は車外の景色を眺めながら頬杖をついていた。
 途中でふと思い出したように、バッグの中から昨日買ったまんじゅうをひとつ取り出し、「これ、あとで食べて」と差し出す。
「ひとつ余っちゃってたから、あげるよ」
 彼女はそのまんじゅうを抱きしめるように受け取り、しばらくの間じっと見つめていた。
 こちらに振り向くと、小さな声で「ありがとう」と笑った。
 信号が青に切り替わる。

氷 / アンナ・カヴァン

小説と音楽の関係を考える。それはそれとしてアンナ・カヴァンのiceを紹介する。 - asylum piece

 つい最近この記事を読み、そういえば積読していたなと思い出し読んだ。私が読んだのはちくま文庫のものでなく、バジリコ出版から復刊されたときのもので、かれこれ十数年積読(正確には押入れの奥に眠ったまま、幾多の引っ越しを経た)していたものになる。

 しばらく仕事場での人間関係に鬱々とすることが続いており、休みの日に出かける気力もなくSpotifyで音楽を漁るか本を読むくらいしかやることがなくなり、その過程でいわゆるbreakcoreなるジャンルの音楽に浸るようになり、上記の記事を見つけた。それからアンナ・カヴァンの『氷』を積んでいることに思い立ち、ふと読んでみた。

 これを買った当時の私は完全な美少女ゲームオタクだったので、おそらく旧来のアニメ的な「セカイ系」を意図して買ったのだろうと思う(たとえば『そして明日の世界より――』とか)。その頃はこうした終末ものをジャンル問わず片っ端から買っていたからだ。しかし、これは広義では「セカイ系」にカテゴライズすることはできるかもしれないが、それはやや牽強付会に過ぎ、いわゆるサブカル的な「セカイ系」とは異なる世界観の小説であるように思う。

 たしかに、この小説は「氷」の迫りくる世界の終末のヴィジョンを描いた小説ではある。そして、物語の最終的な結末は"私"と"少女"の二者間の関係性に収束するように見える。それは確かにいわゆる「セカイ系」としてのテンプレートとしての構造をもちうるように見える。世界の終わりにまつわる情報の欠落。"私"と"少女"との世界の終末。

 しかし、実際には"長官"がいなければこの物語は成立しえない。それは、物語のラストにおいての"私"と"少女"の関係性が"長官"なしでは成立しえないということだ。

 確かに、最後の最後は"私"と"少女"の関係性に収束する。しかし、ここで描かれる関係性は"長官"という第三者が関わることによってはじめて成立しえる関係性だ。決して"私"と”少女"のふたりだけによって紡がれる世界の終わり、君と僕とふたりだけの世界の終わりと表現できるような甘美あるいは恍惚的なものではない。そのことの意味は、この物語を最後まで読めば理解できる。そしてこれこそが、いわゆるアニメあるいはライトノベル的な「セカイ系」とは決定的に異なる点だ。

 この小説における"私"と"少女"の関係性は、現実と幻想の混濁するファンタスマゴリア的な描写を斥ければ、徹底的にリアリズムの世界に由来するものであることは疑いようがない。それは、「セカイ系」にフィクショナルなものを求めるひきこもり的なユートピア逃避と、世界に対してアイロニカルな嫌悪を持つカヴァンの違いであるように思う。それはある意味で近似ではあるが対極にあるもののようにも思える。

 そういう意味においてこれは「セカイ系」ではなかった。私がこの小説を読むために数十年の時を経て、これを読んだことは正解であったように思う。

 これは、"少女"が"私"を試し続け、"私"は"少女"を追いかけるもその「試し行動」を理解することができず拒絶されていくという、男女関係のディスコミュニケーションにまつわるかなり普遍的でシンプルな物語だからだ。

 とはいえ、私はこの"私"にも”少女"にも感情移入ができない。”私"が"少女"に向ける暴力的な行為も、"少女"がただひたすらに"私"から逃亡しながらも最終的に「あなたを待っていた」というアンビバレントな感情も理解に苦しむ。なんてまどろっこしい奴らなんだと思う。ただ、苦しむだけで多少の理解はできるし、男女の関係というのはそうだよな、とも思う。

 一体、カヴァンは何を思ってこの小説を書いたのだろうか。この小説で最も描きたかったことはおそらく氷による世界の終末ではない。確かに、この小説が提示する世界観はとても美しい。この小説が"スリップストリーム文学"とカテゴライズされるのは、リアリズムと交錯する幻想的な終末と幻覚のヴィジョンであることは疑いようがないし、実際にその描写を楽しむためにこの小説を読む価値はある。それらのイマジナリーなヴィジョンを描きたいという欲求はもちろんあったに違いないが、それよりもっと描きたかった個人的な感情が背後にあったことは間違いない。でなければこの物語のラストはもっと別物で、壮大な世界の終末を描いていたはずだからだ。しかし、この物語における世界の終末は"私”と"少女"の二者間の関係性に収束する。この小説の最後の一文がそれを示唆している。それはまるで、世界の終わりがまるで個人的な出来事であるかのように。

 カヴァンが描きたかったのは、いったい何だったのだろうか。そこにはカヴァン自身の、とてもプライベートな出来事がそこにあったように思える。それこそが、この小説が読者の感情をかき乱すような魔力の源泉なのではないだろうか。

 たぶん、この小説は買った時点では今よりももっと理解できなかったはずだ。買った当時に単なる"セカイ系"の一部としてのライトノベル的な消費として読むよりも、現在になって様々な人生経験を積んだ上で読んだ方が確実によかったと思える。そうした読書体験だった。

バトル・ロワイアル / 深作欣二

 お盆の暇つぶしで観た。もはや何度観たか記憶にないくらい折に触れ観ている。公開当時小学生だか中学生だったと思うが当時ニュースやなんかで死ぬほど大騒ぎしていた記憶がある。確かに暴力描写はR15+くらいのものでよくできているなあと思う。

 日本映画史に残る青春映画の金字塔。スクールカーストのメタファーとして、あるいはもっと直截的な表現として、あるいは卒業(学生としての死)によってスクールカーストが破壊されるカタストロフィを描いた映画として、この映画はよくできている。
 深作欣二が決めたのか、周りの誰かが決めたのかはわからないがエンディング曲がDragon Ashの『静かな日々の階段を』で、これは今思えば本当に絶妙な選曲だった。もっとホラー映画のようなおどろおどろしいハードコアな印象の楽曲を選ぶこともできたはずだ。そうではなく、Dragon Ashのなかでも取り立ててさわやかな日常の機微を歌ったこの楽曲を使ったところが本当に絶妙で、この映画が単なる殺し合いの映画ではなく紛れもない青春映画であるということがはっきりする。我々世代の"青春"のニュアンスを当時からよく理解している人間が作ったのだなあとつくづく感じる。

 冒頭で山本太郎がボストンバッグを投げ返して「そっちのをよこせ」と関西弁で迫るシーンが好きだ。この映画の山本太郎は本当にかっこよかったなあ。今ではベテランになった俳優ばかりだが、いま見ると全員年下になって子供に見える。昔は全員年上だったのだが。

SNS 少女たちの10日間 / バルボラ・ハルポヴァー&ヴィート・クルサーク

 前からなんとなく気になってはいたドキュメンタリー映画。お盆で暇なのでアマプラで流し見した。

 結論から言うとかなり面白かった(というと語弊はあるが)。12歳くらいの少女に扮した俳優がSNSのメッセージでペニスの画像を送りつけてきたりカメラ通話で脱衣を要求してくるような変態野郎どもと対峙し、少女のSNS利用に潜むリスクを描いた作品。

 この映画に「やらせ」という批判が伴うのは理解できる。この監督たちが表現しようとする思想が明確で、それを表現するための演出がそもそも過剰だからだ。SNSで少女たちとコミュニケーションを取ろうとする人物は顔をモザイクで修正されているものの、眼だけがモザイクされていない状態で(モザイクの顔に真っ黒な目だけがあってかなり気持ち悪く演出されている)明らかにある種の「怪物」として描出されている。もちろん少女とカメラ通話しながら自慰をするなどかなり怪物的な行為を行っているので実際に「怪物」ではあるのだが、わざわざ目だけをモザイクせずに残しているので、そうした視覚的表現による意図が目立つ。

 そのことは中盤から終盤にかけて出てくる若い看護師(だったか?)との会話でわかる。彼はそれまでの男たちとは違い「裸をインターネットにアップロードするのはよくない、それは愛するべき人にだけ見せるものだ」みたいなことを言うのだが、そのときにはじめてその男のモザイクがゆっくりと(いきなりでなく本当に徐々に)解除されていく。怪物たちで蔓延っているインターネットにも、良心のある人もいるのだということが示される。そのときにはっきりこのモザイクがプライバシーの保護よりも怪物性の強調として使われているのだということがわかる。男は少女に扮する女性たちに「いい男だわ」と称賛され、現場は感動的な雰囲気に包まれる。感動で泣いているスタッフもいる。

 個人的にこのシークエンスは本当に不要だったと思う。それまでの男たちは明らかに高齢や肥満の冴えない風貌の人物たちであることがモザイク越しにでもわかるような状態であったのに対し、この男は若いイケメン風の男である。これに対して一部の感想では「ルッキズム」という批判がある。それが妥当かどうかは微妙なところだ。そもそもSNS上で少女とコミュニケーションを取ろうとする男の統計を取ればそれは性的に不満を抱きやすい冴えない人物像の男が大半だろうというのは当然あると思うからだ。ドキュメンタリーとしての中立性を確保しようとするなら、そうした冴えない人物だけではなく、若くて端正な男でもそうした行為を行っているというサンプルも前半に使うべきだった。あるいはこのシークエンスを若い男でなく同じような属性を持つ人間にするべきだっただろう。もちろん単に網にひっかからなかったというサンプリングの問題もあるのかもしれないが、先述したようなモザイクによる演出的意図が明らかであるために、こうした人選が何かを意図していると勘繰られてもやむを得ないだろう。

 そもそも彼が「いい男」と言われているが本当にそうなのか。ガールフレンドがいるにも関わらず「クールな人と会話したい」という理由でインターネットで12歳の少女とカメラ通話したがるような男はほんとうに「いい男」なのだろうか。カメラ通話での露出や自慰に快楽を覚えるのではなく何らかの別の変態的なフェティシズムを持っている可能性だってなくはないだろう。単に(これまでに比べて顔が)「いい男」なら、そりゃそうかもしれないが。

 また終盤、もっとも気になったのは喫茶店SNSの男と会って話をするシーンだ。話をしているところにたまたま犬が来て、男の座っている椅子に対してマーキング、つまりオシッコをするシーンがある。非常に些細なシーンだが、偶然撮れたのかタイミングがよかったのかわからないが、「やらせ」では?と疑義を呈したくなるシーンになっている。こうしたわざとらしいモンド映画を彷彿とさせる作為と偶然の曖昧さがこのドキュメンタリーを信用ならないものにしている。

 これらの積み重ねはドキュメンタリーとしては致命的になりかねない。そもそも人選はおろか、出演者が全員フェイクであるという可能性が生じるからだ。こうした虚実皮膜は人を強く惹きつけるが、内容の真実性に疑問を投げかけられることになる

 題材的にはセンセーショナルで文句なしに面白いのだが、間違っても良質のドキュメンタリーとは言い難く、監督らによる過剰な演出が残念な結果をもたらしている映画ではあった。ネットに潜伏するリスクを炙り出す映画として適当に観るのが妥当だろう。

 コンビニとかで売っているよくわからない漫画(「あなたの周りの変な人たち」とか「不幸な人たち」みたいな読者層のよくわからないあれ)を思い出した。あの手の漫画はほぼ読んだことはないが、この映画の内容を漫画化して「インターネットに潜むおかしな人々」みたいなタイトルをつけたら違和感なくコンビニコミックの棚に並ぶだろう。

 お盆のひまつぶしにはまあまあの映画だった。女の人はキモくてこの映画は観てられないかもしれない。同じ男である自分としてはあまりのキモさにゲラゲラ笑いながら見てしまった。

スパイラル:ソウ オールリセット / ダーレン・リン・バウズマン

 無職でヒマだったので観た。

 叙述トリックを使った作品を紹介するときに「この作品は叙述トリックだ」と言ってしまうと既にネタバレを喰らうのと同様に、ソウシリーズを観るときには「ドンデン返しのプロットを作ろうとしている」というのが明らかなので、いい加減そういう自縄自縛をどうにかしたらどうだろうと思うのだが、未だに続けているのはそれを期待している観客がおり、実際儲かるからなのだろう。

 このシリーズを初めて観るのであればそれなりのどんでん返しになっているような気もするが、そうでなければいつものように、シリーズを重ねるにつれどんどん納得感の失われていく奇妙な殺人ピタゴラスイッチと、より納得感のないストーリーのナンバリングタイトルを観せられるだけだ。

 シリーズ通して追いかけている身としてはどうしても惰性で観てしまうが、率直に言って観るに値するのは1、2、頑張って3までだろう(当時3からクソ映画化が始まったと思っていたが、今観るとその後のシリーズが酷すぎて相対的にマシに見える)。

 正直もっとも驚いたのはストーリーなどではなく、マジシャンのクリス・ラムゼイが出演していたことで、思わず巻き戻しで確認した後ネットで調べてしまった。

ホムンクルス / 清水崇

  僕は基本的に漫画というものをほとんど持っていないが、この山本英夫の『ホムンクルス』だけは所有していて、引っ越しの際にもほとんど迷わず持って行くことにしているくらい好きな漫画だったりする。

 そんなわけでこの漫画が実写化されたとネットで知ったときは狂喜乱舞したのだが、実際に観てみるといささかの残念さを伴う出来で、正直がっかりしたというのが本音ではある。

 綾野剛の名越進など他が想像つかないくらい違和感がなく、成田凌の伊藤学もチャラい感じはしたもののかなりハマっていてよかった。ななこ役の岸井ゆきのにしてもイメージからそう遠くなく、キャスティングや映画の全体的なヴィジュアルは全く悪くないどころか個人的には完璧に近いと思った。実際、原作をほとんどまるまる再現したような前半パートはすげえと思いながら観ていたのだが、ななこが出てきてからが全く面白くないのだ。それはキャストの問題でなく単純に脚本の問題で、短時間にまとめる為には当然原作を改変せざるを得ないわけだが、個人的に残念なのはそもそも原作とこの映画の結末がほぼ真逆に近いことだ。

 ネタバレをする。この映画の名越(綾野剛)はラストで伊藤(成田凌)にこう述べる。「俺たちは誰かに見て欲しいあまりに他人を見なかった、他人を見ればそこから世界が広がる」。

 それに対して原作の結末はだいぶ異なっている。名越は他者のホムンクルスを見続けることによって自分以外の全ての他者の中に自己を見出してしまい、他者と自己との境界線を見失うことで、世界のありとあらゆる他者が自己として認識されるようになる。名越は伊藤に「もう誰かを見るのは疲れた、俺を見てくれ」と言いながら伊藤をトレパネーションしようとする。それはこの映画版のセリフとはまったく正反対の結末である。

 繰り返すが配役や音楽が醸し出すアトモスフィアや、映画そのもののヴィジュアルはほとんど完璧に近いと思っている。ただ肝心のお話がいまいちなのがひたすら残念だったという他ない。原作を読まないほうがむしろ楽しめる映画ではある。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| / 庵野秀明

 個人的な感想を書く。

 もっと投げっ放しで終わると思っていたのだがちゃんと終わっていた。成熟を拒否しつづけてきた碇シンジが既に大人としての生活を営むトウジやケンスケに助けられながら「他者を救う」ことを自ら選び取り、ゲンドウやアスカを救済することで物語に一応の結論がついていく様は圧巻というか、エヴァシリーズのラストは他にありえないのではないかと鳥肌もので興奮しながら観ていた。

 しかし問題はここからだ。成熟を受け容れた碇シンジが選んだのは単純なビルドゥングス・ロマンではない。肝心の最後で碇シンジ綾波レイを救済するために「全てのエヴァンゲリオン」、ひいては綾波レイの存在しない世界を新たに創造することを選ぶ(それは、これまでのテレビシリーズから新劇場版エヴァに至るまでの、"エヴァンゲリオン"というアニメシリーズそのものの否定に他ならない。それははっきりとわかりやすく描かれる。『さらば、全てのエヴァンゲリオン』というのはそう言う意味だ)。そしてその後、唐突に碇シンジや真希波マリが(ここは旧劇そのものだ)メタフィクション性を強調するように絵コンテで描かれるようになり、最終的には現代版学園エヴァのような真希波とのラストシーンから、実在する"実写の"宇部新川駅を映し出して終わる。

 はて、これは旧劇の変奏に過ぎないのではないか。20年以上前に旧劇で庵野秀明が「お前ら現実に帰れよ、これは単なるアニメだぜ」と語ってみせたのとほとんど同じことであり、結局のところファンの否定に他ならない。違いがあるとすればそれは碇ゲンドウが父であることをかろうじて選び取ろうとすることであり、エヴァンゲリオン庵野秀明のパーソナルな作品であることを思えば、実際に自らが父になったこととおそらく無関係ではない。かつてはオタク達に向けて「現実に帰れ」と述べた庵野秀明が、自らが父となり再び現在もエヴァを追いかけつづけるオタク達に「現実に帰れよ」と述べる。あるとすれば違いはその立場くらいだ。

 もしこれがそのように旧劇のヴァリアントに過ぎないのであれば、一つ的外れなのはもはやエヴァシリーズのファンとしてかつてオタクだった彼らはもうほとんどが同じような「父」なのではないかということだ(もちろんそうでない人もいるだろうが)。そういう彼らがこの映画を観てもほとんどは既に現実を生きているのであり、相変わらずの芸風だなあという感慨くらいしか抱かないのではないか。そしてそもそも仕事や子育てに忙しく新劇場版エヴァなど追いかけていない可能性だってある。

 そしてこのテレビシリーズから旧劇そのものの否定は、このアニメをずっと追い続けているわけではない若いファン達にとっては(意味は伝わるが)最高に不親切であり、「父はいいぜ、現実に帰れよ」というメッセージは的外れそのものだ。あるいは、「現実に帰って真希波マリと恋愛しろよ」と言いたいのだとすれば、それはもはやジジイが若者に向けた単なる説教でしかない。

 とはいえ、まあ実にエヴァンゲリオンらしい完結編だったと思う。一応全て映画館まで足を運んで観ているがさすがに内容を覚えておらず、地上派放映も完全無視で一切復習なしで観にいったのだが内容を把握できるように作られている親切設計ではあった。結末はエヴァシリーズの謎完全解明ではなく、これまでのアニメシリーズ全否定という相変わらずの尖り具合ではあったが。