シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| / 庵野秀明

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 もっと投げっ放しで終わると思っていたのだがちゃんと終わっていた。成熟を拒否しつづけてきた碇シンジが既に大人としての生活を営むトウジやケンスケに助けられながら「他者を救う」ことを自ら選び取り、ゲンドウやアスカを救済することで物語に一応の結論がついていく様は圧巻というか、エヴァシリーズのラストは他にありえないのではないかと鳥肌もので興奮しながら観ていた。

 しかし問題はここからだ。成熟を受け容れた碇シンジが選んだのは単純なビルドゥングス・ロマンではない。肝心の最後で碇シンジ綾波レイを救済するために「全てのエヴァンゲリオン」、ひいては綾波レイの存在しない世界を新たに創造することを選ぶ(それは、これまでのテレビシリーズから新劇場版エヴァに至るまでの、"エヴァンゲリオン"というアニメシリーズそのものの否定に他ならない。それははっきりとわかりやすく描かれる。『さらば、全てのエヴァンゲリオン』というのはそう言う意味だ)。そしてその後、唐突に碇シンジや真希波マリが(ここは旧劇そのものだ)メタフィクション性を強調するように絵コンテで描かれるようになり、最終的には現代版学園エヴァのような真希波とのラストシーンから、実在する"実写の"宇部新川駅を映し出して終わる。

 はて、これは旧劇の変奏に過ぎないのではないか。20年以上前に旧劇で庵野秀明が「お前ら現実に帰れよ、これは単なるアニメだぜ」と語ってみせたのとほとんど同じことであり、結局のところファンの否定に他ならない。違いがあるとすればそれは碇ゲンドウが父であることをかろうじて選び取ろうとすることであり、エヴァンゲリオン庵野秀明のパーソナルな作品であることを思えば、実際に自らが父になったこととおそらく無関係ではない。かつてはオタク達に向けて「現実に帰れ」と述べた庵野秀明が、自らが父となり再び現在もエヴァを追いかけつづけるオタク達に「現実に帰れよ」と述べる。あるとすれば違いはその立場くらいだ。

 もしこれがそのように旧劇のヴァリアントに過ぎないのであれば、一つ的外れなのはもはやエヴァシリーズのファンとしてかつてオタクだった彼らはもうほとんどが同じような「父」なのではないかということだ(もちろんそうでない人もいるだろうが)。そういう彼らがこの映画を観てもほとんどは既に現実を生きているのであり、相変わらずの芸風だなあという感慨くらいしか抱かないのではないか。そしてそもそも仕事や子育てに忙しく新劇場版エヴァなど追いかけていない可能性だってある。

 そしてこのテレビシリーズから旧劇そのものの否定は、このアニメをずっと追い続けているわけではない若いファン達にとっては(意味は伝わるが)最高に不親切であり、「父はいいぜ、現実に帰れよ」というメッセージは的外れそのものだ。あるいは、「現実に帰って真希波マリと恋愛しろよ」と言いたいのだとすれば、それはもはやジジイが若者に向けた単なる説教でしかない。

 とはいえ、まあ実にエヴァンゲリオンらしい完結編だったと思う。一応全て映画館まで足を運んで観ているがさすがに内容を覚えておらず、地上派放映も完全無視で一切復習なしで観にいったのだが内容を把握できるように作られている親切設計ではあった。結末はエヴァシリーズの謎完全解明ではなく、これまでのアニメシリーズ全否定という相変わらずの尖り具合ではあったが。