村上春樹 / Carver's Dozen レイモンド・カーヴァー傑作選

 むかしから村上春樹が好きでよく読んでいる。多くの読書好きがそうであるように、彼の小説やエッセイなんかをあますところなく読んだ後は、彼が影響を受けたと思しき英米圏の作家を読むようになるのだが、どういうわけだか彼の好きな作家というのは、僕には全然ピンとこなかった。ジョン・アーヴィングジョン・アップダイク、スコット・フィツジェラルド……等々、買い漁って読んではみるものの、面白く読めたのはサリンジャーくらいなもので、少なくとも当時の僕にとってはその良さが全くわからなかった。

 レイモンド・カーヴァーもそのうちの作家のひとりで、この『Carver's Dozen』に至っては買って積んであるだけで1ページも読むことはなく、幾度かの引っ越しを経てそのまま処分してしまった本だった。もう10年以上前のことになる。

 つい先日、連休が始まり実家に帰る際に、暇を潰すものが何もないので古本屋に立ち寄ったところ、たまたまこの本が100円セールのワゴンで投げ売りされているのを見かけた。今ならこういう小説も理解できるんだろうか? そう思って、なんとなく買って読み始めた。

 正直、最初の数編を読んだ時点では相変わらずよくわからないな、という印象だったことは確かだ。『でぶ』を読み終えたところで、全編こんな感じだったら全然面白くねえぞと嫌な予感がしたのだが、『サマー・スティールヘッド(夏にじます)』と『あなたお医者さま?』と進むにつれてだんだん読み慣れていって、あ、これ面白いぞという感想に変わっていった。短編集だし連休が終わるまでにぽつぽつと読んだらいいかなと思っていたのだが、結局そのまま止まらずに『足元に流れる深い川』から、詩『レモネード』まで一気に読み、なんだか終わるのが惜しいな、と寂しい気持ちになったりして、何度か色んなページを拾い読みしたりしていた。

 この魅力を言葉で説明するのは非常に難しい。どの作品も物語というよりは、そこにぼんやりと描かれていく日常の機微とか、心のやりとりとか、そういうかなりあいまいな、言葉にできないような感覚を描いているからだ。

 彼女は会う人ごとにその話をした。でも相手に伝えられない何かが残った。彼女はなんとかそれを言葉にしようと、しばらくの間試みていたが、結局はあきらめることになった。(P.151) 

 どれも素晴らしい短編で気に入っているのだが、個人的には『ぼくが電話をかけている場所』のラストが好きだ。アルコール中毒で療養所に集まる人々の話なのだが、最近の表現を使うならとても"エモい"一文だ。

 僕はポケットから小銭をとり出す。先に女房にかけよう。もし彼女が出たら、新年おめでとうって言おう。でも、それだけだ。ややこしい話はなし。どなるのもなし。相手がいろいろと持ちだしてきてもだ。今どこから電話してるのって訊かれたら、それは言わなくちゃなるまい。新年の決意については黙っていよう。それは冗談半分で口にするようなことではない。女房と話したあとで、ガールフレンドに電話しよう。いや、そっちを先にしようか。本当にあのガキが電話に出ないといいんだけどな。「やあ、シュガー」と彼女が出たら言おう。「僕だよ」(P.217)

 読み終えた後、あの頃の自分がこれを読んで理解できたかどうかと思い起こしてみても、おそらくこの本のあまりにもぼんやりとした"味わい"みたいなものは理解できなかっただろうし、読んだところでうまく咀嚼することも、消化しきることもできなかっただろう。無理に読んでそのまま放り出し、二度と触れることもなかったのではないか。そう考えるとあのときの僕が本を処分してしまったのも止むを得なかったなと思うし、こうして歳月を経て再会したのも喜ばしいことだったな、と思う。

 Amazonで調べたらレイモンド・カーヴァー全集は古本ならそこそこ安く買えるようで、端本で少しずつ読みながら集めたいと思ったが、結局この本を一気に読み終えてしまったのと同じように、すぐ揃えてしまうのかもしれないなと思った。

(1997年 中央公論社 ★★★★☆)