大塚英志 / 殺生と戦争の民俗学 柳田國男と千葉徳爾

 図書館でパラパラとめくりながら「殺生の快楽」という物騒な見出しが目に飛び込んできて、大塚英志にこの手の話を書かせたら面白いに決まってるよなと思いながら手に取った本。

 柳田國男の弟子たちの中でも最も「部外者」に近かった千葉徳爾(本書によれば大塚英志の師にあたる)が、柳田國男の「正統」な後継者としていかなる衣鉢を受け継ぎ、どのように自らの<戦争の民俗学>を構築していったかを、自らの学生時代のエピソードなども交えて述懐しながら論じた本。

 僕は高校生くらいの頃から大塚英志の本は折に触れ読んでいて、柳田國男の"衣鉢"が自ら内省する選挙民を教育するという「公民の民俗学」であることも読む前からなんとなく想像がついていたし、その他方で柳田國男が山人論に代表される「ロマン主義」的な想像力で揺れ動いていたというような話(エイゼンシュテインとかロシア・フォルマリズムとか貴種流離譚とか、大塚英志っぽい固有名詞もちょこちょこ出てくる)は過去の著書で把握している僕にはスッと入ってくるものの、これまでにそうしたものに触れたことのない読者がこれを面白いと思うかどうかは、ちょっとよくわからない。千葉徳爾という人物も柳田研究者のあいだでは常識に属するのかもしれないが、一般的には非常にマニアックな人物であろう。そういう人物について400頁弱も書かれた本が現在どれくらい読まれるのだろうか(それに加えて大塚英志自身も「過去に書いたことだから」と議論を省略して読者を突き放してみたり、きちんと書いて親切にしてみたりとなんだかよくわからない距離感を持っている。この本はわりと親切な方だとは思うけれど)。

 とはいえ大塚英志のナラティブな語り口は相変わらずさすがで、スタバで時間を忘れて読み耽ってしまった。本人としても恩師に対する思い入れが深いのだろう。読みながら熱く滾るような感傷が流れていくのがわかる本だと思った。

(2017年 ★★★★★ 角川選書

ロベルト・ジョビー / カード・カレッジ・ライター

 ロベルト・ジョビーの『カード・カレッジ・ライター』の完訳。こうした本を翻訳、出版してくれる方々は本当に尊いと思う。僕らのようなアマチュア・マジシャンはいくらギャランティやチップを稼いでいようが、結局やっているのは他人の真似事ばかりで、偉そうなことを吠えていても結局「カラオケボックスで歌が上手」の域を出ないのだなと実感させられることは多々ある。

 閑話休題。スライト・オブ・ハンドを全く使わないトリックが21作品収録されている。読んでいる途中でオーバーハンドのストック・シャッフルを「これはスライトには入らないでしょう」とわざわざ書いてあるのに出くわして「スライトレスの敷居が高すぎるだろう」と思ったのだが、それくらい精選されたセルフワーキングのトリックが収録されている。とりあえずカードをリフル・シャッフルできたりヒンズー・シャッフルできたりする程度の習熟があれば、おそらく全てのトリックを演じられるくらいの難易度である。

 マジシャンという人種はたった数行の解説のためだけに数千円から高ければ数万円を払うという、一般的に見れば非常に奇妙な金銭感覚を持っているが、この本で読むことのできる演技全般に関しての数多くの理論や注釈は、コストパフォーマンスなどという言葉が失礼に感じるほど豊富なマテリアルを含んでいる。

 前巻『カード・カレッジ・ライト』に引き続き、初めて知った原理や演出もあった。前巻は知らなければマジシャンでも追えないような「不可能なカード当て」的な作品が目立っていた感があったが、今回もカード当てからギャンブリング、トライアンフまで、さらなるバリエーションに富んだ味わいの深い作品が収録されている。テーブルでトリックを一つ一つ丁寧に再現しながら読み、幸福な時間を過ごさせてもらった。

 『カード・カレッジ・ライト』と『カード・カレッジ・ライター』の二冊だけでも"夕食後のカード・トリック"には死ぬまで困らないと思うのだが、それでもしょうもないマジックの宣伝動画にだまくらかされ、ときどき無駄遣いするのだと思うと、こういう厄介な趣味に持ったことはつくづく業が深いなと感じる。

 基本的には全てお気に入りのトリックで、おそらく何かの形で演じるとは思うが、最後にとりわけ気に入った作品を3つ書いておく。

The Australian Fives(ロナルド・ヴォール)

 “The Australian Fives” とともにエキゾチックな手続きの助けを借りて、2枚の選ばれたカードが、不思議なことに見つけ出されます。 

  セルフワーキング特有の"エキゾチックな手続き"を使ったトリックにフェティシズムを持っている身としては、コントロールする際のサトルティに「へえ」と唸ってしまった。目の前で見せられたとしたら、おそらくどうやっていたのか分らなかった自信がある。

Double S’Entendre(ケン・クレンツェル)

 マジシャンの関与なしに、2人の観客がそれぞれお互いの選んだカードを見つけ出します。

  もしこれを現代的に解決するのであれば、メモライズドやギミックを使った不可能性の高いソリューションを用いるのだろうが、この極めて図々しい"ほとんどなにもしないことの快楽"に対する魅力は抗い難い。

10-11-12

マジシャンはオープン・プレディクション公開の予言として、1枚のカードを表向きで置きます。観客に3つのサイコロを振ってもらい、出た目の合計と同じ枚数のカードを配ってもらいます。最後に配ったカードと予言のカードが一致しています!

 本書の中で唯一、サイコロジカル・フォース的な要素がある。この原理そのものは『カードマジックフォース事典』を読んでいて(確かアンネマンのアイデアであると書かれていたと記憶している)何かに使えないかとメモっていたのだが、もうこれ以上シンプルにならないだろう。リスクのないサイコロジカル・フォースでオープン・プレディクションというある意味で夢のようなトリック(言い過ぎか)ではないだろうか。

(2018年 小石川文庫 ★★★★★)

A・A・ミルン / クマのプーさん、プー横町にたった家

 先日『プーと大人になった僕』を観に行ったのだが、ミルンの原作もまったく読んだことがないし、ディズニーのアニメすら全く知らなかったので、ウサギやらカンガルーやらフクロウやら未知のキャラクターが登場してきて「なんじゃこりゃ」状態で、それでも面白かったし感動したのだが、原作もやっぱり読んだ方がいいなと思い、図書館で借りてきて読んだ。

 たとえば劇中に於いて、プーとクリストファー・ロビンがいなくなった仲間を探しに100エーカーの森に行き、いなくなった仲間たちを捜すシークエンスがある。ふたりは北に向かうことになり、クリストファーがかつて戦場で使っていた方位磁針をプーに渡すのだが、プーは方位磁針を見ずに自分の足跡を追いかけてしまう。結果、同じところをぐるぐる回ってしまい、クリストファーが我慢できずにプーを怒鳴りつけるというシーンがあるのだが、これは『クマのプーさん』の第三章で、プーとピグレットが謎の生き物の足跡を追いかけていくが、それは自分たちの足跡で、ただぐるぐる回っていただけだった、というエピソードと対応している。

 「おばかさん。」クリストファー・ロビンはいいました。「きみはなにしてたんだい? はじめ、じぶんひとりで木のまわりを二度まわってさ。それから、コブタがきみのあと、追っかけてって、ふたりでいっしょにまわってさ。それから、また、もう一度まわろうとしてたんだよ。」

「ちょっと、まって。」と、プーは、前足をあげて、クリストファー・ロビンをとめました。

 そして、プーは腰をおろし、かんがえられるだけかんがえぶかく、かんがえました。それから、ひとつの足跡へじぶんの足をいれてみて、鼻を二度ばかりかくと、立ちあがりました。

 「そうだ。」と、プーはいいました。

 「わかりました。」と、プーはいいました。

 「ぼくは、ばかだった、だまされてた。ぼくは、とっても頭のわるいクマなんだ。」

 「きみは、世界第一のクマさ。」クリストファー・ロビンが、なぐさめるようにいいました。

 「そうかしら?」と、プーはすこし元気になり、それから、きゅうに元気いっぱいになると、「ともかくも、もうかれこれ、おひるの時間だ。」と、いいました。そこで、プーは、おひるをたべに家にかえりました。

(P.66-68)

  この反応の違いを知ると、クリストファー・ロビンがただ単にモタモタしているプーに怒鳴ったのではなく、長い年月をかけて着実にイノセンスを摩耗させられてしまったのだということをさらに深く理解できる。また、このシーンの後にクリストファーは穴に落ちて気を失うが、この穴もプーとピグレットが『クマのプーさん』の第五章においてゾゾ(ズオウ)を捕まえるために掘った穴だったらしく(映画で言及されていたかどうかちょっと覚えてないが)、100エーカーの森を単なるファンタジー空間として片付けるのではなく、ディテールを忠実に再現することで原作ファンを喜ばせるクリエイションは本当に素晴らしいなと、読みながら映画を思い出して感動を覚えていた。

 他にも、映画だけではつかめなかったキャラクター性みたいなもの(正直ピグレットの「臆病」とイーヨーの「ネガティブ」は区別がつかず、キャラかぶってね?とか思っていた)がちゃんと理解できるようになったり、映画で感じていた様々な疑問が氷解したのであった。

 石井桃子氏の翻訳はさすがに古いせいもあってか、いささか読み難い。いつの翻訳かはわからないが時代を感じる言い回しが多く、それなりに本を読んでいる大人でさえ読み難いと感じるのだから、スマホ世代のリーダビリティに慣れた子供が読んでも違和感しか覚えなかろうと思うのだが(岩波のフォントも細かくて読み難い。これは俺が老境に差しかかりつつあるからかもしれないが)。

 村上春樹も言うように古典的名作は異なった翻訳が並行したかたちで存在していて構わないのではないかと思うし、Amazonで調べると角川から森絵都、新潮から阿川佐和子の新訳が出ているらしく、いまから読むならそっちの方がいいんじゃないかという気もするが、読んでいないのでなんともいえない。イラストが原作のものではないというまた別の問題もある。

 とはいえ、作品そのものは楽しんで読ませてもらった。この後ディズニーのアニメを観て、アン・スウェイトの『グッバイ・クリストファー・ロビン』もそのうち読む予定。

岩波書店 1957年,1958年 ★★★★★)

マーク・ダグラス / ゾーン 相場心理学入門

 僕自身はトレーダーではないし、それに類する投資も全くやらない。もしかするとこの先いつか手を出すこともあるかのかもしれないが、今のところその予定はない。にも関わらずこの本を読んだのは、単純な知的興味からである。

 ほとんど知識がなくファンダメンタル分析だのテクニカル分析だの言われてもサッパリわからないのでGoogleで検索したりして読んだが、実際のところはそれも最初の導入の部分のみであり、中盤以降はそうした専門用語もほとんどなくスラスラ読んだ(最後の演習部分はかったるいので飛ばしたが)。

 結論から言えば、あまり想定の範囲を大きく超えない本ではあった。「相場心理学」と銘打ってはあるものの、実際には心理学的なエビデンスを引用してくるわけでもなく(むしろほとんどが喩え話)、トレーダーとして成功するための「姿勢」や「心構え」をひたすら述べており、心理学というよりは自己啓発や精神論に近い。

 要するに何を語っているのかといえば、この種のスピリチュアル本や自己啓発本において繰り返し語られてきたものとほぼ相似で、「世界」や「社会」や「人生」とかいうような大仰な主語を「市場(マーケット)」にそのまま置き換えたような内容である。

 市場の不確実性はいかなる分析を以てしても予測が困難なものであり、我々はその結果を粛々と受け容れることしかできない。過去・現在・未来という関係性において、過去は痛みに囚われやすく、未来は欲望・期待に絡め取られやすい。それらはどちらも認識によって生まれた思い込みに過ぎず、客観的な材料とはならない。であるとすれば、我々は現在、つまり「今ここ」において客観的な判断を行いつづけることで、トレードでの成功を勝ち取ることができるのだ。……とか、そういう感じのどこかで聞いたような内容が繰り返される。

 パンローリングは好きな出版社なのでけっこう読んでいる(『ザ・ゲーム』とか『抱けるナンパ術』とか、ああいうPUA本をアホみたいに読んでいた時期がある)せいもあってか、かなり既視感を覚える内容ではあったが、トレーダーがモチベーションを維持するために読む本としてはきっと良い本なのだろうと思う。この種の本は知的な理解ではなく、実践することで初めてその意義を持つということが往々にしてある。

 ただまあ、やっていない人間が言うのもあれではあるが、この本通りに行えばトレーダーとして成功できるかと言われたらまあ疑問ではあるし、そもそも成功したトレーダーがみんな「ゾーン」なる境地に達しているというのも本当か?という感じではある。まあ、そういう細かいことは抜きにして、トレードに対する情熱を保つために読む本だと思う。

(2002年 パンローリング ★★★☆☆)

セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ / 誰もが嘘をついている ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性

 めちゃくちゃな希死念慮に襲われるたびにGoogleの検索ボックスに「死にたい」と意味もなく打ち込み、検索結果のページを眺めては溜息をつくということを繰り返していたことがあるのだが、ある時期を境にして検索結果に「こころの健康相談統一ダイヤル」なる電話番号が表示されるようになり、へえみんなけっこう死にたいって検索してんだなあ、と思ったことがある。

 そのとき「死にたい」と意味もなく検索ボックスに入力した僕たちは「死にたい」という心情を図らずも"自白"してしまったわけだが、Googleはどんな検索履歴もデータとして一言一句たりとも漏らさずに収集している。本書はそうした膨大なビッグデータから、社会についていかなることがわかるのか、ということを明らかにしていく。

 これまでのような対面での調査では、調査員の目を気にしてしまったりするなどの要因から「社会的望ましさのバイアス」が働き、自分の本来的な考えではなく、社会的に受け容れられやすい回答をしてしまう傾向があるのだという。

 先ほどの例で言えば、大切な誰かに「死にたいって思ってるの?」と聞かれても「いや、そんなことないよ」と言ってしまうようなものだろう。心の中は希死念慮で溢れているのにも関わらず。それでも僕らはGoogleには「死にたい」という心情を吐露しているわけで、どちらがより本心に近いのかと言えば、それは言葉に出した「そんなことないよ」よりも、Googleに吐き出した「死にたい」の方だったろう。

 ビッグデータであればそうした「社会的望ましさのバイアス」に囚われることなく、人々の本心を知ることができる。統計から漏れてしまったものをすくいあげることができる。それがおおむね本書の主張するところであろう。ーーいや、正確に言えば細部は違うのだが、要は対面では他人の視線がバイアスになるってことで、まあそれはそれでいいだろう。

 個人的に印象に残ったのはポーンハブ(Pornhub。Googleの検索結果以外にも、Pornhubのようなポルノサイトのビッグデータをも用いるところも面白い)の検索結果が、フロイトオイディプス・コンプレックス的な主題を示唆しているという部分。詳しくは書かないがまさかフロイトとポーンハブの検索結果を結びつけるなんて予想だにしなかったので、スタバで他の客に怪しまれるくらいニコニコしながら読んでしまった。

 それ以外にもGoogleの検索結果からわかるトリビア(死語)みたいなものが満載の超面白い本である。ビッグデータ賛美だけでなく、ちゃんと臨界点にも触れている。いささか冗長な部分がないではないけれども、こんなに楽しい本にはなかなか巡り会えない。

(2018年 光文社 ★★★★★)

デイヴィド・クレイグ / コンサルタントの危ない流儀 集金マシーンの赤裸々な内幕を語る

 僕にはブックオフのビジネス書コーナーという地球上で最も意識の低いであろう場所で本を買いまくる悪癖のようなものがあり、そこでたまたま手に取った一冊。コンサルタントとして華麗なる経歴を持つ筆者が、虚業としてのコンサルタントの内幕や、その手口について語った一冊。

 よく似た業界で働いていたことがあるにしても、コンサルタントという業界の実際はまったく知らないので、どこまでが事実に則しているのかはよくわからないが(カルロス・カスタネダは言い過ぎにしても、いささか盛っているのではなかろうか)、スキャンダル誌でもめくるような塩梅で面白く読めた。

 コンサルタントがいかにして企業に取り入っていくのかにフォーカスした章もあり、そのプロセスがわりあいに具体的に語られていくのだが、暴露本の形を取りながらも具体的なコンサルティングのテクニックを紹介しており、実用的かどうかはともかく、真っ当なビジネス書としても読める。

 もうずいぶん前の本なので情報も古そうだし、さすがにこれ一冊読んで「コンサルはクソだぜ!」と知ったかぶりするのもどうかと思うが、ビジネス読み物として非常に面白い本だった。古本の値段が手頃なのもグッド。

(2007年 日経BP社 ★★★★★)

 

ランベルト・バーヴァ / ザ・トーチャー 拷問人

 僕が大学生くらいの頃にホラー秘宝というキングレコードのホラー映画専門レーベルがあって(まだあるっぽい)、古いカルト映画や低予算ホラー映画を定期的にリリースしていたのだが、その頃に観ようと思いつつ放置した一本。

 口から猿轡を吐きだし磔にされたような格好の女性がデカ写しにされ、おどろおどろしいフォントで『ザ・トーチャー 拷問人』というストレートなタイトルが踊るパッケージが尋常でないいかがわしさを醸しており、当時なぜかAmazonでのセル版の取り扱いがなかった(現在別のところからリリースされているものは普通に売られているようだが)ことも拍車をかけて「どれだけ倫理的にまずい映画なんだ」と興味津々だったのだが、いつの間にかレンタルビデオ屋から姿を消してしまいまあいいかと忘れ去ってしまった。

 最近ゲオで見かけたので今更感を覚えつつなんとなく観たのだが、パッケージのいかがわしさはどこへやらという感じのユルい雰囲気で、コメンタリーでも指摘されていた通り一抹の懐かしさの漂う「ホステル風のジャーロ」みたいな映画で、この種のトーチャーポルノにしてはあまりにも控えめなので、むしろ健康的というか、牧歌的ですらあった(言い過ぎか)。これに比べればひたすらピタゴラスイッチ的な殺人ショーに趣向を凝らしつづけるSAWの方がよほど病んでいる。

 まあ今さら観るようなもんでもなかったが、長いこと抱いていた疑問は氷解したのであった。

(2005年 キングレコード ★★★☆☆)