糸巻き

 僕は糸を巻きつづけていた。
 なんのために糸を巻いているのか、そもそもこれがなんの糸なのかも僕は知らない。いつから巻いているのか、いつまで巻けばいいのかも僕にはわからなかった。
 それでも僕にはこの糸を巻くしかないようだった。糸を巻くのをやめて、ここから出ていくこともできた。けれども他にすることがなかったし、巻くのをやめたところでどうなるというわけでもなかった。
 糸を巻く手は軽くなったり、ときどき重くなったりした。永遠に回しつづけていられるような気分になるほど軽いときもあれば、両手の指が千切れるんじゃないかと思えるくらい重いときもあったけれど、いずれにせよたいていの場合はなんとなくつづけられる程度の作業でしかなく、さほど負担も感じなかった。

 僕がいつものように糸を巻いていると、あるとき一人の女の子がドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせているのに気がついた。誰かがここにくるのは初めてのことだった。
 女の子は「何してるの?」と不思議そうな表情でたずねた。女の子の視線は、僕の糸を巻く手を追ってくるりくるりと回っている。
 僕は手を止めずに「糸を巻いているんだよ」と答えた。
「どうして?」
 僕は少しだけとまどった。その答えがわからなかったからだ。どうして僕はこの糸を巻いているのだろう? この糸を巻くことに、一体どういう意味があるのだろう?
 女の子は相変わらず、首を傾げながら僕を見つめている。けれども僕にはその答えがわからなかった。この答えがわかる人なんて、たぶんこの世に一人もいないだろうなと思った。
 僕は「わからないな」とほほ笑みながら答えた。
「わからないのに糸を巻くの?」
 思わず糸を巻く手が止まってしまった。女の子のいうことはあたりまえの疑問だったから、僕は「そうだね」とごまかして返事をするしかなかった。今まで僕がしてきたことをすべて否定されたような気分になった。
 女の子は「ふうん……」と何度かうなずいた。

「そろそろ帰らなくちゃ」
 女の子は悲しげに呟いた。それからまた、視線を僕の方に戻すと「ずっと巻いてるの?」とたずねた。
 僕は「巻いてるよ」とうなずきながら答えた。
 女の子は「そう」というと嬉しそうに笑った。それから「またくるね」と手を振り、ドアを出て小走りで離れていった。
 どうやら僕は、この先も糸を巻きつづけなければならないみたいだった。けれども、僕には糸を巻く理由というものができたらしかった。
 僕は糸を巻きつづけている。

江戸川乱歩 / 江戸川乱歩名作選

 江戸川乱歩の本を読んだのはせいぜい『江戸川乱歩傑作選』を中学生の頃に読んで面白いなあなどと興味を持ちつつ何冊か適当につまみ食いした程度で、あとは丸尾末広人間椅子や映画(若松孝二の『芋虫』)を通して触れていたくらいしかないのだが、なんとなく書店で新潮文庫のコーナーを見ていたらこれを見つけて「こんなのあったか?」と思いながら買って読み始めたらやはり面白かった。比較的最近(といっても数年前になるが)編まれたもののようで、通りで書店で見かけた記憶がないと思っていた。そもそも江戸川乱歩など探してはいないから目につかなかったのだろうが。

 ファンではないので大して知りもしないのだが、タイトルを聞いたことのある名作ばかりが収録されており、そもそもこの種のミステリ的な作品を読むこと自体がまったくないのもあって古い作品ではあるが新鮮味のある読書だった。

 個人的に好きなのは『押絵と旅する男』と『人でなしの恋』(ベタベタ)。これに収録されていない乱歩作品でもっとも好きなのは『パノラマ島奇譚』で、これは二回ほど読んだ記憶がある。子供心ながらにラストシーンがとても美しいと思っていた。

 『踊る一寸法師』はめちゃくちゃ丸尾末広が好きそうだなと思いながら読んだが、実際に『芋虫』で漫画化されているようで読んだはずなのに全く記憶にない。

(2016年 新潮文庫 ★★★★★)

アダム・ウィンガード / サプライズ

 Netflixでマイリストしてあったのでなんとなく観た。個人的にはなかなかお気に入りの映画。

 『13日の金曜日』シリーズでもっとも好きな作品が『13日の金曜日 PART 7 / 新しい恐怖』で、これはファイナル・ガールである超能力少女にジェイソンが手も足も出ずにボコボコにされ、緊迫感との過剰なコントラストでじわじわと笑いが生まれてしまうタイプのホラー映画なのだが、この『サプライズ』も近い雰囲気があるなと思いながら観ていた。

 中盤まではアニマルマスク集団に家族が次々と殺されていき、ホワイダニット(何のために?)を軸に話が進んで行くのだが、物語が進むにつれてヒロインがかつてサバイバル・キャンプで様々な訓練を施されていたという過去が明らかになり、最終的にアニマルマスク達はプロの殺し屋集団(もしかすると烏合の衆だったのかも)でありながら、ヒロインたった一人にミートハンマーや手製のトラップでバッタバッタと倒され、アッサリ全滅させられてしまうのであった。

 そこまでならご都合主義的な凡作スプラッターといった雰囲気で記憶にも残らなかったと思うのだが、この作品の秀逸なところはファイナル・ガールの"その後"を描いたところにあって、その結末によってこの映画が実はそもそもコメディであったことが明かされる(『サプライズ』)ことになる。ヒロインが異常に強いのは都合でもなんでもなく、この映画がコメディとして撮られていたからだったのだ。

 個人的には邦題が悪いとはそんなに思わないが、原題の『You're Next』の方が皮肉は利いている。

 ミキサーでアレをアレするシーンはオールドスクールスプラッターの匂いが感じられて非常によかった(トロマの『マザーズデー』を思い出したよ)。なんとなく80年代の映画とかでああいう妙に凝った殺し方って出てきそうな感じ。というより何かの映画に対するリスペクトなのだろうか?

 大学生の頃、ホラー映画をレンタルビデオ屋で借りて観ていると、よくこういうメタ的な作品に当たった気がする。ジョン・ギャラガーの『ザ・フィースト』とかね。なんとなくその頃を思い出して懐かしい気分になった。

Netflix 2013年 ★★★★☆)

タネリ・ムストネン / サマー・ヴェンデッタ

 暇つぶしに借りてきて観た。ネットのレビューはかなり酷評に近いものが多いが、そうした評価を下したくなる気持ちはわからないでもない。

 二転三転する展開は観客の予想を裏切ってやろうという意図が明らかで(にも関わらずトレイラーの段階でネタバレしてしまうのは一体どういうつもりなのか全くもって理解に苦しむ)、いったいどうなるのだろうと観客を期待させもするが、その大落ちの「どんでん返し」にあまりにも安直な"あれ"をやってしまったのが我慢ならなかったのだろう。

 パッケージ裏の「ニューライン」という印字を見ていささかハードルが低くなっている感はあるけれども、個人的にはなかなか面白かったのも確か。一時間半に満たないというのも時間的にちょうどよく、主演ふたりの巨乳に対する執着を全く隠さない小憎らしいサービスぶりもその理由の一つではある(なぜ捕まえてわざわざ水着姿にする必要がある?)。ホラー映画の女優の多くは映画が進むにつれて薄着になり、最終的にはTシャツ姿になってオッパイを強調しがちであるが、この映画も例外でなく中盤からずっとボインボインしている。というかそこにしか目がいかねえ。

 今となってはもう珍しくもなくなってしまったが、ウェス・クレイヴンのようなホラーというジャンルに自己言及的な「裏切り」ではなく、どちらかといえばジャンルそのものを横断するような「裏切り」に近い。ホラーを観ていたと思ったら別ジャンルの映画だった、という方がおそらくこの映画を正しく言い表している。

 見終えてしばらくのあいだ大落ちに既視感を覚えていたのだが、ようやくその正体が判った。『ディセント』だ。

(アルバトロス 2017年 ★★★★☆)

鏡リュウジ / 占星術の文化誌

 現代の枠組みにおいて「オカルト」として退けられがちな占星術は、中世以前では一つの学問あるいは教養として科学と分かちがたく結びついていた。文学・美術・音楽・医術・心理学という諸分野において、それがどのような影響を与えてきたのかということについて書かれた一冊。

 タイトルの「文化誌」から予想はつくと思われるが、占いのテクニクスを学ぶハウツー本ではない。学術書というよりも占星術に関するアカデミックな筆致のエッセイ、というほうが感覚的には近い。

 個人的には冒頭の「占星術とメディア」と題する章がいちばん面白かった。本書によれば女性誌などで連載されているような形式の「星座占い」は1940年代の英国でもほとんどメジャーではなく、1960年代にリンダ・グッドマンの『太陽星座』のヒットによって爆発的に普及したとのことで、つまりここ50年くらいのムーブメントであるようだ。

 また、そうした「星座占い」の形成には近代占星術の父とも呼ばれるアラン・レオという人物が大きく寄与している。アラン・レオ以前の古典的な占星術では、「あなたはこういう性格です」というような性格診断的な描写はまだ少なく、あったとしても飾り気のないものに留まっており、著者の言葉をそのまま借りれば「占星術においては内面というものが存在していなかった」のだという。

 アラン・レオは神智学に傾倒しており、その中心教義としての秘教的な太陽崇拝を占星術に反映させた。占星術において太陽は他の惑星に対して取り立てて優位を持ってはいなかったが、アラン・レオは太陽にこそ本人の霊的アイデンティティが顕現していると考え、それまでは外面的な描写に留まっていた占星術に豊穣な性格描写を導入するようになった。そうした"内面の発見"が心理学化してゆく現代占星術を花開き、ひいては我々が日頃から目にするような「星座占い」に溶け込んでいるのだと著者は述べる。

(2017年 原書房 ★★★☆☆)

岩井洋 / 記憶術のススメ 近代日本と立身出世

 明治二十年代ごろ、催眠術・心霊術・記憶術を始めとする<術>ブームがあった。それは資本主義が輸入され、日本が急速に近代化していく過程において、人々がより経済的な価値観を重視し、時間を細かく断裁することで効率的な時間配分を獲得しようとする思考洋式の変容によって起こったムーブメントであったと言える。

 そうしたライフハック的な<術>ブームの中で、"分限思想"(身分社会における「身分相応」な成功を求める)から"立身出世"(下から上の階級に勝ち上がるチャンスが得られる)へとイデオロギーが移り変わり、競争熱が高まってゆく人々のあいだで、どのように記憶術が浸透していったのか、そしてそれがいかにして学校教育と結びついていったのかということを明らかにしてゆく。

 なぜ記憶術の本が現代において『自己啓発』としてカテゴリーされ、書店に並べられているのかということがそのまま書かれていると言っても過言ではないだろう。

 記憶術ブームの発端となった「和田守記憶法」を編み出した和田守菊次郎という人物がかつて「糸平事件」なる詐欺事件に関与しており、そのときの共犯メンバーの一部が「和田守記憶法」の仕掛人と一致する、というくだりはさしずめ推理小説のような趣もあって興味深かった。また、現代のハウツー本などで散見されるような、思考のコントロールや言語テクニックなどの操作を用いた「ソフト」な記憶術だけでなく、身体的なトレーニングや衛生管理(ストレートに言えば"好色"の禁止など)によって記憶力を増進しようと試みる「ハード」な記憶術も同様に多かったというのも面白い。

 記憶術をライフハックとして身につけるための本では無論ないのでそういう向きには勧めないが、記憶術の具体的な調査研究に基づいた文化誌としてかなり面白い本。

(1997年 青弓社 ★★★★★)

ジョゼフ・デスアール, アニク・デスアール / 透視術——予言と占いの歴史

 奇術の演出論的な興味から読んだ。あとがきによれば著者のジョゼフ・デスアールはそもそもが本業の"透視術師"なので、その実践に基づいたオカルト的な(あるいは超心理学的な)語彙で溢れてはいるものの、透視術(占いも含む)のカテゴリーや実際の事例などをまとめた軽い読み物としてはなかなか面白かった。

 現時点での個人的な奇術的関心を述べれば、こうしたシャット・アイの透視術師がどのような思考やロジックを辿っているのかということをトレースすることに興味がある。

 たとえば奇術において「カードを一枚当てる」という現象を演じるとする。その際に「マインド・リーディングによって当てる」という演出をすると考えたとき、それを微表情によって当てるのか、脈拍の動きのなにがしかで当てるのか、透視能力で当てる(だとすればそのカードのイメージが"視える"のか、頭のなかでつぶやく声が"聞こえる")のか、というような演出のカテゴリーがまず先にあり、そのいずれかを実際に自ら"行使できる"ということを自己暗示的に信じ込み、実際に遂行することが奇術そのもののリアリティ、換言すれば"能力の錯誤"を生むことにつながると考えるからだ。いや、奇術というのは微妙かもしれない。これはメンタリズムの話になるのだろう。

 まあともかく、そうしたことをふと考えるときに読む本としてはなかなか悪くなかった。そもそも透視術とは何か、という問いに始まり、代表的な透視術の種類について、透視術といかさまとの関わりについてなど、広く浅く触れられている。150頁ほどの新書なので情報量としてはそれほど多くないのだが、読みながらいろいろと思うところはあった。

  自分の「サイ」能力を調べてみたい人のためには、ラインが考案した普通の五二枚一組のトランプによって行う検査をお薦めする。この方法は、まず最初に四枚のエースを抜き出し、表を向けて並べて場のカードとする。それから残りの四八枚のカードを切り、裏を向けたままで四種類の絵柄に分けて、四枚のエースカードの該当する絵柄の上にそれぞれ積み重ねていく、というものである。大切なことは、配っていくカードではなく、絵柄が見えている四枚のエースカードのほうに注意を集中させる事である。一回の実験で偶然に成功する平均確率は一二枚である。(P.115-116)

 奇術的に解決できるんじゃないかなと思ったりもしたのだが、実際に演技しているところを想像してみるとなんだか冗長になりそうな気もする一方で、実際に演じたら強烈は強烈であるような気もするし、不気味の谷をあっさり超えてしまい「どうせ仕掛けがあるんでしょ」と言われてしまうような気もする。とりあえず引用だけしておくことにする。

(2003年 白水社 ★★★☆☆)